Last Updated on 2024年2月21日 by yukayuka
1975年から指名手配されていた桐島聡容疑者が入院中の病院で亡くなったことが判りましたね。
約50年におよぶ逃亡生活や事件の全貌が明らかになることはもうありません。
そこで今回は、桐島容疑者が学生時代から現在までの生い立ちをまとめます。
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桐島聡のプロフィール
名前 | 桐島 聡 (きりしま さとし) |
生年月日 | 1954年1月9日 |
年齢 | 70歳 |
出身地 | 広島県深安郡神辺町(現:福山市) |
当時の身体的特徴 | ・身長160cm ・極度の近視 ・足が細く顔にはニキビの跡がある ・広島弁を話す |
桐島聡の出身高校はどこ?
桐島聡容疑者の出身高校は広島県立北尾道高校です。
1972年に卒業しています。
同級生の男性は次のように話しています。
”列車で約1時間かけて通学していた。真面目で目立たないタイプだったが、体育祭などの学校行事ではクラスメートと一緒に汗を流していた。”
同級生は口を揃えて桐島容疑者は、大人しくて目立たないタイプだったと言っています。
また、人に流されやすい一面もあったようですね。
桐島聡の大学はどこ?
桐島聡容疑者の大学は明治学院大学 法学部です。
高校卒業後、ストレートで大学に進学しているので頭の良い方だったようですね。
当時は学生運動が盛んだった時代のようで、桐島容疑者はその運動に傾倒していったと思われます。
桐島聡が起こした事件とは?
明治学院大学在学中に、桐島聡容疑者は東アジア半日武装戦線に参加していました。
1975年に桐島容疑者は、東京銀座にあった韓国産業経済研究所のビルを爆弾で破壊した容疑で指名手配されました。
桐島聡の病気は?
桐島容疑者は、約1年前 (2023年初めごろ)に胃がんだと診断されました。
潜伏中の身なので、保険証を持っておらず通院は難しかったようですが、症状が進行してからは自費で通院していたとみられます。
約1ヶ月前(2023年12月)近所に住む男性が、マスク姿で歩いていた桐島容疑者に声をかけると「体の具合が悪い」と言ってつらそうだったと証言しています。
2024年1月に入ると桐島容疑者は路上で倒れ、近くにいた男性が家まで送って行ったそうです。
”しゃがみ込んで、しゃべるのがやっとな感じで抱えて行った。
もうガリガリで手配写真と比べると3分の2ぐらい痩せた人相だった”
と語っています。
桐島聡の入院の経緯は?
2024年1月上旬に桐島容疑者は神奈川県内の病院に入院し、1月25日に突然「私は、桐島聡です。最後は本名で迎えたい」と名乗りました。
死期を悟ったのでしょうか。
桐島聡は土木会社で働いていた!
桐島容疑者は、神奈川県内の土木会社で「内田 洋」という偽名を使い数十年に渡り住み込みで働いていたことが分かりました。
その土木会社は、藤沢市南部の閑静な住宅街の一角にあるようです。
桐島容疑者は、会社からほど近い古びた木造2階建ての住宅に1人で暮らしていたということです。
会社近くに住む男性は、会社関係者から
”生い立ちのはっきり分からない不思議な人だけれど、雇うことにした”
と聞いたと言います。
この男性にも桐島容疑者は「内田」と名乗っていました。
桐島聡を知る人物の証言
桐島容疑者は潜伏中の身なので、周囲との付き合いはなかったと思いましたが、”仕事仲間と冗談をかわし、仲良くしていた”「うっちゃん」と呼ばれていた” そうです。
長い間一緒に働いていた人には心を許していたのでしょうか。
桐島容疑者が働いていた土木会社の取引先の人によると、
”男は無精ひげ姿だった。車や重機の運転をする姿は見た事がない。あまり会話は交わさなかったが、優しい口調だった”
と語っていました。
運転免許証など身分証明書は持っていなかったでしょうね。
他にも近くに住む女性は、
”普段からニット帽をかぶり、黒縁めがねをかけていることが多かった。今思えば確かに背格好などは似ていたが、桐島容疑者がこんなに近くにいたかもしれないなんて・・・”
と驚いていました。
桐島容疑者は町内に溶け込んでいたようですね。
桐島聡の家族は?
桐島容疑者の指紋などのデータが警視庁にはないので、親族とのDNA鑑定を行うと報道されていました。
つまり、血縁関係をもつ人物がいるということですね。
DNA鑑定を”きょうだい2人”と行っているので時間がかかっているようです。
ということは、ご両親はすでに他界されている可能性が高いと推測します。
両親に比べると正確性が低くなるのできょうだい2人と照合しているとの事なので、少なくとも兄、弟、姉、妹のいずれかが2人いるという事ですね。
1人で住んでいたようなので、妻や子供もいないと思われますが現在の所は不明です。
桐島聡の最期
数日前から重篤な状態や危篤状態と伝えられていましたが、2024年1月29日の朝に亡くなった事が判りました。
事件の真相や約50年におよぶ潜伏生活の全貌が分からないまま亡くなってしまったことは残念です。
被害者遺族や警察関係者にとっても無念でしょう。
”桐島聡として最期を迎えたい”と本名を名乗った桐島容疑者でしたが、遺族が遺体の引き取らなかったため、”内田洋”のまま荼毘にふされました。
まとめ
桐島聡容疑者が亡くなるまでの生い立ちについてまとめました。
この50年の間どんな思いで、どのような生活をしていたのか気になります。
今後、桐島容疑者を知る人たちから証言が出てくれば、その生活が少しは垣間見れるかもしれませんね。